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10分小説B

「早気な生活」    著: 弓弦 音音


早気。弓道を知らないものにとってはまったく意味は分からないだろう。いや、弓道経験者であっても、早気になったことのない人間は本当に早気を理解することはできない。早気というのは簡単に言ってしまえば、弓を引くものにとってもっとも厄介な「病気」である。弓を引く動作の中で、「会」という弓を最大限に引いた状態(正確な表現ではないが)があるが、早気の人間はこの状態が1秒持たないのである(程度により差はあるが)。つまり、弓を引き下ろしてくるや否や離してしまうのだ。毎回同じ引き方ができないため矢はバラバラに飛んでいき、中りを気にすればするほどそれは悪循環にはまる。自分では持とうと思っていても体が言うことをきかない。「持ってりゃいいじゃん」という言葉は禁句である。持てないったら持てないのだ。まことに極めて厄介な病である。

字形大学弓道部にも早気で苦しむ部員がいた。彼は弓道loveな熱血弓道部員であったが、あまりに単独練習を重ねすぎ、徐々に忍び寄る魔の手に気づくことなく、指摘されることも無く見事に早気になってしまったのである。それも彼の場合重度の早気であった。弓を早く離してしまうだけならまだ救いがあったのかもしれない。生活の大半を弓道が占めていた彼は、なんと日常生活も早気に侵され始めたのである。

「そんなに落ち込むなよ、筈彦(はずひこ)。まだまだ時間はあるんだからゆっくり直していけばいいよ。」
「Noぉ〜…。早気の人間に、ゆっくりだなんてそんな嫌な単語ぶつけないでよ。」
「やっぱ焦るのは良くないよ。中りを気にするのは分かるけどさ。そういえばこの部で弓道長くやってる人はけっこう早気経験者だよね。でも今は普通に会もってるから、続けてればいつか直るんだよきっと。俺もそうだったよ。」
「でも尚(たかし)も他の先輩達も早気は弓道に関してだけだったでしょ。」
「はい?」
「いやだから、弓道以外で早気に悩まされたことないでしょ?」
「…うん。…ていうか、日常生活にも及ぶ早気ってあるの?」
「あるよ、そりゃお前。早気は俺の日常生活をも侵食し始めたよ。」
「えぇ〜…?じゃ、じゃあたとえば?」
「カップ焼きそばあるでしょ。あれ、お湯捨てる前にソースかけちゃう。」
「いやないだろそれは!なんでそうなるの!」
「つい気が焦って。早く完成させたいと思うあまりに。体が言うことをきかないんだ。」
「まあ…、早気っちゃあ早気か…。でもそれ、まずいでしょ?」
「うん、おいしくはない。すごいうすい。」
「でしょうね。それだけ?他には?」
「そうね。あ、TUTAYAでDVD借りるじゃん。あれ、見る前に返却しちゃう。ひどいときはその場で。」
「早っ!意味ねぇ〜!!すごい無駄してんじゃん。ほんと信じられないよ。それも体が言うこときかなかったの?」
「ああ、そうだよ。見終わって返却している自分を想像しただけで、返却したくてたまらなくなるんだ。」
「なんかこえぇな早気って…。まあそんなの初めて聞いたけど。」
「それだけじゃないよ。ここ最近さらに程度が増したっていうか、もうどうしようもなく気が早くなっちゃったんだよ。こう早く早くって、なんか強迫観念みたいなものが…。」
「うん、切羽詰ってるかもね、いよいよ。」
「そうなんだ。その証拠にさ、ここ2ヶ月間のサザエさんなんだけどね。」
「…うん。」
「話のはじめを見ただけでもうオチが読めるんだ…。計24話、はずしたこと無い。ちなみに最後のじゃんけんは常勝だよ。」
「………。それ早気?」
「早気だよ!もうなんか、少しでも早く話を知りたいと思うあまりにさ…。」
「いやいや、それはただ冴えてるだけじゃない?ていうか考え方によってはすごいよ。どっちかというと超能力系だよ?」
「いや、先が読めるのは今のところサザエさんだけなんだ。」
「ほんと使えないなそれ。今思ったんだけど…、それらの状況は本当につらいんですか?なんか面白そうなんだけど。」
「何言ってんだよ、つらいに決まってるだろう!何回も言ってるけど自分の意に反して体が早く早くって動いちゃうんだよ。経験したことないお前にこのつらさはわかんないよ。」
「わかったわかった、悪かった。まあ症状はどうであれ早気…だもんな。そこは俺にもわかるから。原因はやっぱり弓道なんだろ?やっぱり地道に弓道やってなおしていくしかないよ。つらい道だけどね。」
「まあ、ほんとにそれしかないよな。でも本当に地道にやってればいつかなおるのかな。」
「そこで弱気になったら負けだよ。まず手が届きそうな目標を立てて、それができたら次に進んでいけばいいよ。それを繰り返していって、時間をかけて最終的にゴールにたどり着けばいいんだよ。」
「尚、いいこと言うな〜。なんかやる気出てきたよ。」
「だろ?俺も練習付き合うからがんばろうぜ。」
「よし、じゃあまずは手始めに来週からサザエさんは見ないようにする。」
「………。」
「………。」
「…そっちじゃねえよ。」

その後も『電車に乗るや否や次の駅で降りてしまい、学校に着くのに4時間かかった。』、『彼が乗ったタクシーだけメーターの回転が異様に早い』など弓道以外の数々の珍早気に悩まされた彼は、今尚早気と戦い続けているという。
あなたの身の回りにこのような人がいたら、是非一言「お前、早気じゃない?」と声をかけて本人に気づかせてあげてほしい。


(注)この文章における「早気」は、あたりまえですがフィクションです。







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